この記事は、運営者が内容を確かめている途中の下書きです。町や家によって違う作法・金額などは、確かめたうえで直していきます。
始まりは寛永11年(1634年)

諏訪神社の踊場と長坂(写真:運営者)
長崎くんちは、長崎の氏神である諏訪神社の秋の大祭です。
寛永11年(1634年)、長崎奉行の榊原・神尾の両奉行から、諏訪の祭礼を行うようにとのお触れが出ました。
諏訪神社の初代宮司・青木賢清(あおき けんせい)は喜んで宝殿と拝殿を造り、神輿を用意し、お旅所を大波止に定めました。
祭りまでの日が少なかったため、このとき造った神輿は諏訪と住吉の2社の分だけだったと言われています。
最初の祭りは、旧暦9月7日に、町々の中からくじで選ばれた11の町が奉納し、9日に10の町が奉納して、神様が本宮へ戻るというものでした。
「お供町」から「踊町」へ

くんちの中心は、今も神輿の渡御(写真:運営者)
始まったころのくんちは、神輿の行列が中心でした。
行列にお供する町は、7日に手踊りなどでお祝いをしてから神輿についてお旅所へ行き、9日はお山へ戻る神輿のお供をしました。
そのため、今「踊町」と呼ばれる町は、当時「お供町」と呼ばれていました。
江戸時代も中ごろになると、各町の奉納踊はしだいに華やかになり、傘鉾も大きく重いものへと変わっていきます。
中国風、オランダ風の演し物も増えました。
海外に開かれた港町・長崎には、羅紗(らしゃ)やビロード、象牙といった珍しい品が入ってきて、それが惜しみなく使われました。
幕府から何度か「質素にするように」とのお達しがあっても、豪華さは変わらなかったと言われます。
7年に1度の順番ができるまで
| 年 |
できごと |
| 寛永11年(1634年) |
くんちが始まる。くじで選んだ町が奉納 |
| 慶安元年(1648年) |
諏訪神社が今の玉園山の地へ移る |
| 明暦元年(1655年) |
63町を分け、1年目11町・2年目10町の6年回りになる |
| 寛文3年(1663年) |
大火で長崎の町の大半が焼け、道幅や町割りが整えられる |
| 寛文12年(1672年) |
町が77か町に増え、11か町ずつの7年回りに。この組み合わせが長く続く |
| 宝永2年(1705年) |
諏訪・住吉・森崎の三社そろって神輿が渡るようになる |
| 享保19年(1734年) |
お旅所で湯立神事(ゆだてしんじ)が始まる |
寛文12年の組み合わせのほかに、丸山町と寄合町が毎年加わったとされています。
7年に1度という順番は、このとき以来、350年近く続いていることになります。
江戸の終わりから明治へ
| 年 |
できごと |
| 寛政3年(1791年) |
長崎奉行所から、歌舞伎に似た踊りを奉納することを禁じるお触れ |
| 寛政5年(1793年) |
祭りの日取りが改められる(先の将軍の命日と重なるため) |
| 天保11年(1840年) |
お上りで、神輿を担ぐ2つの郷の間に大げんか。翌々年から、1つの郷が1基を担ぐ形に |
| 明治元年(1868年) |
祭りが質素なものに改められ、丸山・寄合を除いて奉納踊は取りやめ。お供町から武者姿で行列に加わる形に |
| 明治8年(1875年) |
太陽暦になり、日取りが今と同じ10月7・8・9日に |
| 明治11年(1878年) |
神輿を新しく造る。今も使われている四角い形の神輿 |
| 明治38年(1905年) |
日露戦争のため、傘鉾だけを奉納 |
| 大正元年(1912年) |
明治天皇の崩御で、奉納踊を控える |
昭和から今へ
| 年 |
できごと |
| 昭和38年(1963年)から |
町名や町の境が変わったことに合わせて、踊町を組み直す |
| 昭和54年(1979年) |
奉納踊が国の重要無形民俗文化財に指定される |
| 2020〜2022年 |
新型コロナウイルスのため、奉納踊と神輿行列が中止 |
| 2023年 |
4年ぶりに奉納。順番は飛ばさず、3年後ろへずらす形に |
昭和30年代の町名の変更で、くんちの町の名前と今の住所の町名が一致しない所も出てきました。
今は、1年に5〜7町ほどが、7年に1度の順番で踊町を務めています。
よくある質問
「くんち」という名前の由来は?
旧暦9月9日の「重陽(ちょうよう)の節句」を、九州では「くんち(九日)」と呼んだことから、という説がよく知られています。
ほかの説もあり、はっきりとは決まっていません。
昔の町の名前は、今どこにありますか?
昭和30年代の町名の変更で、なくなった町名や、いくつかの町が合わさってできた町があります。
たとえば上町は、昭和38年に東中町と、小川町・八百屋町・内中町・東上町の一部が合わさってできた町です。
それぞれの町の成り立ちは、踊町のページで紹介しています。
参考にした情報